等身大の自分を

前田 綾子

――― 札幌 交流保育から ―――

今回の札幌交流保育の合同リズムは62名の年長児。この集団から刺激をもらうこと。くさぶえは6人で参加、他の保育園は20人くらい。20人もいれば交流しなくてもいい?そういうことではない。

私はいつもくさぶえの年長児から離れるように心がけている。できるだけ他の保育園の子に声をかけ関わろうとしている。くさぶえの子が困っている時でさえ、会場園である東札幌保育園の大人に何とかしてもらえるように交渉してほしい。そうするとよその保育園の人はとってもやさしい。そのことに気付いた子は前田の近くには来なくなる。シメシメ…。これが交流する大きなメリット。3回の交流の経過はおもしろい。

1回目、甘えたい子はそういう大人にベッタリしている。その様子を遠目に見ながら、またシメシメ…。ところが3回目になるとどうも様子が違う。ベッタリしなくなる。

1回目に友だちに取り巻かれ人気絶頂だった子が、3回目にポツンと1人。という子もいれば逆パターンでずっと大人のそばにいて子どもには興味ありません。という子が3回目には他園の子数人と雪遊びに興じている。また、毎回、「友だちできちゃった。」と嬉々として楽しく過ごしている子もいる。でも1回目と3回目は同じ子ではない。そこがまた不思議。

私は?といえば1回目、東札幌のたぶんリーダー格の女の子からは一瞥もされず、幼いタイプの男の子と遊んでいたが3回目になると、がぜんリーダー格の女の子達に囲まれいろいろと質問される。

「くさぶえでしょう。何ていう名前?」

「今何歳?ふーん。富岡は○○歳だけど。」

「函館合宿にどうして来なかったの?」

「側転、どうしてやらんの?できんの?」

6歳という年齢は育ちの節目、この時期の12月から3月までの間に子どもに何が起こっているのだろうか?斎藤公子先生はこの時期の保育を「秒読み保育」と表現されていた。秒単位で子どもは変化し、発達、成長している。この卒園期に交流なしの保育は考えられない。

合同リズムの中で跳び箱やこまなど、1人で勝負しなければならない時、きっとドキドキすると思う。何回も失敗する子もいれば一発で決める子もいる。跳び箱では飛び板を離して挑戦する子がいる。そういう子を見て6歳の子どもは刺激を受ける。また、3ないし6のグループに分かれてリズムをするので、荒馬やスケートで、外側から抜いてトップに出る子。内側から小さく回って1番を喜んでいる子もいる。

同年齢のそういう子を見て、

自分はどうしたいか?

自分の力でできるのはどれくらいだろう?

自分ができる範囲でやってみる子。

できないかもしれないけれど、やってみたい子。

何度失敗しても淡々とやり続ける子。

失敗してしまった。くやしい。泣けてくる。泣いてやらなくなってしまう子と、涙をふりしぼってやる子。

かつて斎藤先生の宿泊研修の合同リズムではどんなに泣いていても、「やりな!」という厳しい声が飛ぶ。泣きながらでもできるまでやらせて、出来たときの子どもの誇らしさに斎藤先生は賛辞を送る。それは「できる、できない」ではない。やろうとする意欲や態度を賞賛する。斎藤の厳しい要求にくじけてしまって泣いて、かたくなにやろうとしない子がいた。そういう時どうするか?ここが保育者の力量が問われる。

さて、保育士のあなたならどうする?

父母にとっては自分の子がそうなった時、どんな気持ちになり、どういう声をかけるだろう?

62人の年長児たちはそれぞれに自分と他の子を見て何かを感じている。それは優劣ではない。できない子に心を寄せて声をかける子に、自分も何か言いたいと思う子もいるだろう。かっこよく決める子にあこがれて、ああいうふうになりたい!とがんばる子もいるだろう。がんばることが楽しいと思える時と、がんばることが苦しいと思う時もある。強い自分と弱い自分を見つめる。

等身大の自分、今の自分を見つめ、61人の年長の中で友だちを見つけていくのだろう。そして6歳の子どもは自分の課題を自分で見つけていく。自分のペースで、バランスを取りながら。

あこがれる自分。

がんばる自分。

今はこれくらいでいいかな?と思う自分。

緊張感の中で自分の緊張度合いを確かめ、それが楽しめるようになると本番に強くオリンピックでメダルがとれるようになる、らしい…。

でもオリンピックには出なくても、本番に強い子どもは確かにいる。

札幌交流保育ではくさぶえの子どもがどうか…。ということは考えていない。この年長児62名の子ども集団、そして4園の保育者集団、62名の親集団のあり方、質を考えている。

基本のリズム、そこにいかに子どもに手をかけているか?

「手塩にかけて育てる」という言葉があるように、手の汗が乾いて塩になるくらい子どもに手をかけよ。

手の開きが悪い子が跳び箱できれいに手を開いて跳ぶことは難しい。(公立保育園との交流で身にしみて感じた)

創作リズム「十二月」の最後のポーズを何にするか?

ここに自分の最も苦手とするポーズをもってくる子と得意なポーズにする子。または何も考えず適当にやる子。

乱舞が中心となるリズムではいかに人の後ろにつかず、自分の行き方を瞬間に判断するか。

「行き方」は「生き方」。

真似をしない。

人のあとにつかない。

自分の道は自分で拓く。

これが斎藤公子が考えたリズムあそびの卒園期の最後のあり方。

からだをつくることがこころをつくること。これが文字学習にはいる前の6歳の子どもの姿。

そして保育の実践報告は絵で。

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古宇利島体験記(5)

安原 治子

あの一心が他の年長の子達と一緒に5泊6日の沖縄に行けるのだろうか。
とにかく周りの人や音や出来事にすぐ気をとられ、今自分のやっていることがおろそかになるのである。
それから、体力的にも睡眠不足が続くと体調を崩しやすいので心配だった。
しかし私がいない前半は、色々と問題はあったようだが(どたばた部屋中を走り回る、荷物の用意ができない)、夜泣くこともなく皆と楽しく過ごせたようで安心した。
 沖縄から帰ってきて家族からの「どうだった?」の質問に、「楽しかった」の一言だけでそれ以外何も話さないのだが、日に日に少しずつ長い文を話すようになってきている。
親として、一心が親元を離れて2泊し、5泊6日の日程を他の子と同じようにこなせたことをうれしく思ったとともに、これから集団の中で生活していく上で課題が多いことも改めて感じた。
 今回私自身も後半参加して、元気すぎる子ども達と一緒に過ごし大変だったけれど、とても楽しかったです。
実りの里保育園にも初めて行かせてもらいましたが、やぎがいて、木陰があり、風が気持ちよく、泥水でたっぷり遊べて子どもにとってはとても魅力的な保育園だと思いました。
沖縄といえば、リゾートホテルでのんびりするだけでしたが、農協で地元の食材や野菜を買い込んで料理して食べるとやっぱり安くて美味しい!
古宇利島へ渡る橋からの景色は海がきれいで気持ちよかったし、貸し別荘からの眺めもよかった。
ヤモリのあの奇妙な鳴き声がなつかしいです。
次回はぜひシュノーケリングに挑戦したいです。

保育スタッフを募集しています。

【保育スタッフ募集】

  • 人数:2名
  • 年齢・性別:不問
  • 資格の有無:不問 
  • 障がい児保育や自然の中で遊ぶことに興味のある方、さくら・さくらんぼの保育を学びたい方歓迎です。
  • 詳細はくさぶえ保育園見学の際に説明します。
  • 電話:058-371-7656(担当:前田)
  • 子どもの根っこを育てる

    《子どもの根っこを育てる》ことについて
    1. 親を尊敬するこころを育てる。――― いのちを尊び、敬うこころを育てる。
    2. 《基本のリズム》の理解のしかたと実践
    3. 文学に親しみ、乳幼児に適した質の良い文化を選ぶ
    4. 社会をよくしていこうとする運動をする ――― 弱い子小さい子を思いやる

    1.親を尊敬するこころを育てる –― いのちを尊び、敬うこころを育てる。
     生まれてすぐに、赤ちゃんと目を合わせお母さんをしっかり見つめることが、お母さんを尊敬するこころを育てることになる。目が合ってにこっと笑う、笑うまで何時間も続ける。
    (斎藤先生は最高6時間続け、盲といわれた子の目が見えるようになった。)
    (この時の抱っこの仕方に留意:赤ちゃんの股を開いて立て抱きにする。片手は赤ちゃんの首の後ろに、もう片方の手は赤ちゃんのおへその裏にあて、縦に軽くゆさぶりながら目を合わせる。)
     このことは、父母自身が自分の親を尊敬しているかどうか?父母自身が自分の親を尊敬していないのに、自分の子どもが親を尊敬する、というのは???
    (自分の親に感謝はしてるけれど、尊敬までは・・・という人もいれば、自分の親を非難・否定している人もいるだろう。でも親を非難・否定することは自分の存在も非難・否定することにつながるのではないでしょうか・・・?)
    もし園児が、自分の父母を尊敬するこころが育っているなら、当然父母も自分の子どもを大切に育ててきたであろうし、大切にしてきたからこそ子どもに尊敬され、またその祖父母も、子どもからも孫からも、尊敬に値する祖父母なのだと思う。そうなれば、保育者は簡単に父母の悪口を言えないし、父母ももっと保育者の言葉に耳を傾け、早期教育の宣伝に惑わされることもないだろう。
    人間関係は母子関係のあり方が基本で母子の信頼関係がうまくとれないと、子どもは他者を信頼するこころがなかなか育まれないと思っている。だからこそ、母子関係を大切にしたい。
    子育て観が違っても、立場や意見が違う相手にも、他者に対する深い人間信頼のこころがある人とそうでない人は違う。違うからこそ話し合う、分かり合おうとする努力を惜しまない。(ダライ・ラマもそう言っている)

    人権意識や性教育の意義もこの中に含まれる。自分の親を否定しない。親を尊敬することは親の言いなりになることではない。親の言いなりにはならなくても親を思い、大切にすることはできる。お互いを尊重できる関係をつくる。

    2.《基本のリズム》の理解のしかたと実践  
    金魚運動・寝返り運動・両生類ハイハ運動・ロールマッ
    生命の個体発生は系統発生をくりかえす。赤ちゃんも胎児期に魚類 → 両生類 → 爬虫類 → 哺乳類というように進化を繰り返す。そして誕生してからも、脊椎動物の元となる背骨の運動、背骨がいかにしなやかに動かせるかという金魚運動。背骨に柔軟性をもたせて、目を合わせると脳の発達が良くなると共に、育ててくれる人を尊敬するまなざしが生まれる。
    寝返り運動はハイハイ運動への移行の前段階で、体幹のひねりに足の親指の蹴りを組み合わせた運動である。カールセーガン  「エデンの恐竜――知能の源泉をたずねて」より、DVDブック「子どもたちは未来」   
    p96~97参照にしてほしい。      誤字あり 「最特殊化ではなく再特殊化」

    そして爬虫類の前の両生類という生物の進化の節目、水の中で暮らしていた魚が生きていくために、陸に上がりたいと望み、ひれを必死で動かしてそのひれが手と足に進化するという最も大きな、生物の進化の節目の運動。なおかつこの両生類はひれ呼吸から肺呼吸へという呼吸法の変化まで獲得したのだ。この両生類ハイこそ地に身体のすべてをつけ、脱力しながら、両足の蹴りの力だけで進む。手指を脱力しながら開き、足指の蹴りが強くなれば流れるように進み、どんなにやっても疲れない。この地を這う運動は一見地味だけれど、粘り強さを育てる。
    ロールマット運動は6歳になると、自分が思った所に足を着地させる。巧緻運動の制御である。この生物が人間へと進化していく過程を運動として取り入れ、重要視しているのが「基本のリズムあそび」である。
    以上が身体の土台をつくる運動である。

    3. 文学に親しみ、乳幼児に適した質の良い文化を選ぶ
     6歳の保育にとって欠かせないのはお話。6歳、脳の90パーセントが育つ6歳の時に聞いたお話は子ども達は一生忘れない。その時に子ども達にどんなお話を読んであげたいか?
    文学の会を斎藤公子先生を囲んで、ほぼ毎月企画しているのは穂盛さん。なぜ文学か?これは保育者にかかわらず、すべての人に通ずる文学。そこには人間の歴史がすぐれた文学者による言葉で書かれている。ギリシア神話からはじまり、人間とはどういうものか?という深い理解、感性、こころを読み解く、作者の言葉や文章から、人間は育った時代や国、貧富の差や性別など、立場の違いから、こんなにも異なった人生を歩むものだということが、読むことで知ることができる。主人公や脇役であっても、その登場人物の気持ちや情景が美しい言葉で書かれていて、文学がすべての基本。
    赤ちゃんに(胎児にも)適した文化を選ぶとしたら、クラッシク音楽ではなくお母さんの生の声の歌や語りかけ。幼児期には天然・自然の素材のおもちゃ・・・土・水・木からはじまる。できるだけ害のないものを選ぶ。石油製品や機械音を避ける。

    4. 「社会をよくしていこうとする運動」――― 弱い子小さい子を思いやる 
    「公子という名前がついているからかねえ・・・。」とおっしゃいます。「子どもがみんな笑える日まで」(斎藤公子保育実践全集2の題名。)
    子どもが幸せかどうか?を絵を見て考え、お母さんは子どもを愛して育てているつもりなのに、それが溺愛であったり、過保護であったり、口うるさかったり。実は子どもはお母さん嫌い!と思っている、など。
    子どものこころが真の意味で幸せであるかどうか?すべての子どもの幸せを願っていくためには社会をよくしていこう。自分の目の前いる子だけが幸せならいいのではない。  
     学校での「体操すわり」がいかに子どもの姿勢を悪くしているか?だからみんなで運動して体操すわりをやめて正座するように学校や教育委員会や自治体に働きかけよう。
     赤ちゃんの抱っこの仕方、小さい子を抱くときの抱き方、後ろから小脇をかかえない、必ず子どもと目を合わせて抱っこする。などなど。
    子どもを産んだのに子育ての仕方を知らないまま、親になってしまったお父さん、お母さん。社会的に運動して子どもの育ち方を学ぼう。3歳で文字数字を覚えた子が本当に幸せで賢い子どもになるのだろうか?賢い大人に育っていくのだろうか?

    小さい子弱い子にこころを寄せることのできる子に・・・ 障害児保育と縦割り保育
    こころと身体のバランスが崩れると他者に対するやさしさが薄れくる。英才教育を受けていたり、無理なことを強いられたりするとこころがギスギスして弱いものいじめが始まる。

                     *          *         *

    これらのことに気づいたとき、今まで何十回と聞いてきた斎藤先生の話(斎藤先生が自分の両親をどんなに尊敬しているか?お母さんにどんなふうに育てられたか?また保育者になってから、戦災孤児を預かった時の話など、子どもへの斎藤先生の思い)の内容がはじめて、わかったように思いました。

    《子どもの根っこを育てる》とはどういうことか?何を育てることなんだろうか?
    親というものは、子どもの先を案じていつも不安です。この不安感が早期教育、文字学習や英才教育に走る理由です。でもこれらの早期教育では育たない、《子どもの根っこ》を育てることが乳幼児期の第一の課題です。それこそが《人間》を育てることにつながるからです。根がしっかり育ってさえいれば、どんな幹に育つのか、どんな葉が茂るか、どんな花が咲くのか、どんな実をつけるのかを、楽しみに待っていればいいのです。

    親子運動会のアンケートの協力ありがとうございました。

     今回の運動会でも保護者の方たちのビデオ・カメラが話題になりました。親子運動会なのに参加するより、カメラ・ビデオを持つ人が多い。運動会全体を見ようとせず、自分の子どもだけを撮ろうとする親の姿など・・・。
     今年の3月、全障研(全国障害者問題研究会)の白石先生がくさぶえ保育園に来てくださった時の振り返りの会での、先生の言葉を引用しました。運動会・卒園式のカメラ・ビデオについては毎年話題になります。お父さんとお母さんでも感じ方の違いはあるのが当然です。でも以下白石先生への質問から、答えてくださったメッセージを読んで、夫婦の会話をしてほしいなあ・・・、と思っています。そして是非、議論をしましょう。自分たちの子育て観について。
     
     
    *「子どもの問題点を肯定的に捉える」と言われたが、自分の子どもだから余計そう見れないこともある。どうやって肯定的に見ていけばいいか。

     親がわが子を肯定できないっていうのは、ある意味当たり前でしょう。わが子なんだから。人の子じゃないし。それを自分でクエスチョンする必要もないです。それは前提としてわが子をみておいたらいいと思う。それでも、わが子を肯定できるようになっていくにはどうしたらいいかなっていうことだと思うんですけど、私はやっぱり子どもを見る目、わが子を見る目もそうだし、子どもが自分自身を見る目もそうなんですけど、社会のなかで作られていくので、広い人間関係のなかで、わが子として認められないことでも、他の人が認めてくれるのよね。そういうつながりが作られていかねければいけないんじゃないかな。それは、保育士の方が認めてくれるし、地域の人が認めてくれるし。保育って言うのは、そういうことなんでね。幼児期のやわらかい雰囲気、人間関係のなかでできるいい場所だと思いますが、ましてや学校に行ってそういうことができるかどうか。でも認められるようにならないといけないと思います。教育の場もね。

     今日本の社会は、この園ではどうしているか知りませんけれど、私はこれも、それを前提にすべきとは思ってないんですけど、今の大学一年生くらいから、発表会のときや運動会のときに親がビデオを持ってきてくれて、撮ってくれたという人達が増えてきているんです。振り返ってみると、ソニーが8ミリビデオを売り出している時期です。当時は高かったものが、今は安いお店に行けば、ちょっと頑張れば買えるようなものになってしまったので、おそらくビデオを持ってくる家が増えたんだろうとなと思います。発表会でも運動会でも拍手の量が減って困るというのが、最近の保育士さんの感想です。カメラを持っているので手をたたいてくれない。僕はそれも大きな問題だと思うんですけど、あれを例えば子どもが撮ってもらって、家に帰って見せてもらうわけです。親は子どものためを思って撮っていると思いますから、子どもも自分が映っている姿を見て嬉しいと思うんです。きっとお父さんもお母さんもほめてくれるやろうから。でも、余分な一言が入っている可能性もある。「何で最後までがんばりきれへんかったんかなぁ」「あんなにお風呂の中で練習したのに一つとちったね」とか。まぁ言わないまでも、子どもがああいうふうに見つめられているというのは、子どもの心からしてどうなんでしょうね。しかも、ビデオにはズームがついてて、発表会の壇上か、運動会の会場か、親は周りを撮りつつもわが子にズームアップしますから子どもはそういうふうにズームアップされている自分を映像に中に確認をしている。あれは精神的には、子どもはそうは気づいていないでしょうけど辛いと思います。そういうふうに大人から見つめられているんだっていうことだからね。ビデオだけでなくてね、大人からそういう見つめられ方をされてることに対して、日本の子ども達はだんだん過敏になっていってる。

     それは大学生の変化でわかります。教員の顔色をずいぶん見るようになりました、最近。そんなに大人の顔色をみないでもらいたい。評価を気にしているんだなと思うしね。小学校の先生はどうかわかりませんが、われわれも国語教育を大学生にしっかりしなきゃいけないご時勢です。すごく学力的にきびしい・・。赤を入れて返すんですけど、レポートにね、非常に嫌な顔をします。少しでも朱が入っている、直されているレポートを・・・、自分のためを思って赤を入れてるんだってことをよっぽど言っておかないとね、自分がそういうふうに評価されていること、見つめられていることに対する抵抗が強いんだと思う。そういう中で育ってきたんだろうなぁ。ああいうふうにズームアップすることが平気で行われている社会の現実と言うのは、実は頑張っているのはわが子だけではなくて、まわりも、他の家の子ども達も同じように頑張っているんで、わが子だけが失敗したんじゃなくて、他の子も失敗している、っていうつながりのなかで、親も見なければいけないし、子ども自身も頑張ったのは僕だけじゃない、みんなで力を合わせて頑張ったんだと、失敗したのは僕だけじゃないんだっていうようなことをね、こう・・自分の血肉にしていかないといけない。そういう横のつながりが失われていってる社会が、ああいうビデオカメラに象徴されているように思います。

     私は子育てもやっぱり、そういう横のつながりのなかで行われていくべきであって、わが子を見つめるだけじゃなくて同じように他の子も見つめて、悪いところもきちんと伝えてみんなで力を合わせて育てていくと言うことが、やっぱりわが子を肯定できる子育ての土台じゃないかと思うんです。人間関係がスパッと切られてしまっている。だからそれぞれがわが子と向き合いながら、心配で認められなくて苦しんでいる。みんな同じように子どもも親も苦労しながら育ててるんだって、それを認められることが前提だと思う。

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