2007年度「卒園のしおり」から(9)
【退職した理由】 塩内 直二郎
私は現在1児の父親でありながら理学療法士の専門学校の3年生で、また主夫である。何故、脱サラをし、家族に負担をかけてまで理学療法士になる決意に至ったのかを書かせていただきたいと思います。
私は工業系の高校を卒業後、建設業の中では中堅ゼネコンにあたる会社に就職し、34歳までの16年間勤務してきました。当時、世の中はまだバブル経済の余韻の残った時期で中堅から大手企業への就職が容易な時代でした。私の会社もその頃大変景気がよく、入社した年は「なんと凄いところに就職したのだろう」とつくづく思ったものです。毎週のように行われた高級料亭での親睦会、年二回の旅行、ゴルフなどなど。こんな生活のおかげで就職3年目頃にはすっかりおやじ体型と変貌し、その頃の写真は封印してしまいたいほどひどいものです。私はトンネル工事を専門とし、徳山、恵那、谷汲、本巣など様々なトンネル工事に携わり、しんどいこともありましたがそれなりにやりがいを持ち働いていました。しかし、それから間もなくバブル経済の崩壊ともに、会社も厳しい状況におかれ、平成12年には事実上の倒産、後に民事再生法適応で存続したものの、会社も大幅に縮小し、当時2300人いた社員も1000人まで人員削減されました。所帯持ちから独身の社員まで次々とリストラされていく様を目の当たりにし、強い空虚感に襲われました。大型公共工事などのトンネルやダム建設の受注は激減し(無くなって)、この頃を境に私の仕事に対するモチベーションは低下、その一方で会社に残った我々の仕事量は何倍も増し、毎月100時間以上の残業を強いられる状況でした。この頃の数年間は心も体も全く余裕がなかったため、私のストレスから妻との衝突も絶えませんでした。私はこのような生活が本当に嫌であり、会社への不信感も大きくなりました。
そして、平成13年に太一郎が誕生してからは、太一郎の父親として健康な体と心で向かい合うためにもこのままではいけない、と退職を強く意識するようになりました。
太一郎が4歳のとき、私は単身で岐阜と富山の県境である災害復旧の激務現場に配属されました。
当時、太一郎はくさぶえでの生活が馴染み始めた頃で、育ちの遅れもあったため夫婦で力を合わせることが太一郎にとって何より大切なことだと痛感していました。単身生活をすることで、「太一郎が著しく成長を遂げるこの貴重な時間をともに過ごすことのできない」「家族揃って毎日を送ることが出来ない」と思うと、「これはおかしい、なんのための人生なのだろう」と、ついに退職に踏み切ったのです。
しかし、今後の生活に対しての不安は莫大であり、何よりも妻に負担をかけてしまうという苦しみとともに、太一郎の父親にとってこの決断は本当によかったのだろうかという強い葛藤もありました。
そんなある日、妻が私に言いました。「どうせ次の仕事をするにせよあと25年もある。何か勉強して、しっかり力をつけて再スタートしたほうが絶対にいい!少し自分に投資したら?」と。こんな大胆な妻の助言が私の背中を押し、以前からボディーワークに興味があったことから理学療法士への道を歩む決意をしました。
早速、転換の為の準備を始めましたが、志望校の倍率は高く、16年間一般教科から離れた当時の私では入試をクリアすることすら無理だろうと更なる不安が訪れました。しかし、この時の私には他の選択肢はなく、自分と家族のためにも必ず成し遂げようと決意をし、無我夢中で頑張り、予備校にも通い、自宅でもただひたすら勉強し続けました。私の今までの人生で、あれほどまで勉強をした記憶はなく、大変苦労しましたが、その苦労の甲斐もあってか無事合格し、この春3年目(卒業年次)を迎えることができました。しかし勉強は想像以上に困難をきたしており、まさしく勉強は自分との戦いであると痛感しています。
今の生活も決して楽ではなく、大変厳しい時期ではありますが、太一郎の成長や変化を毎日の生活の中で感じ取ることができ充実した日々を過ごせていることを、心から妻に感謝したいと思います。
私はこの2年間を通し「これがしたい!」ということが見つかった時、懸命に努力をすれば実現不可能ではないと体験を通し自分なりに確信しています。太一郎にもいつかこのような気持ちを持てるよう、今の自分の姿から伝えられればと願っています。
4月から太一郎は小学校に入学。不安はたくさんありますが、前向きに見守っていきたいです。
卒園に向けての文集ということで筆をとりましたが、自分史となってしまいました。最後に前田さんを始め、くさぶえ保育園の皆様には3年10ヶ月の間、大変お世話になり心から感謝しております。本当にありがとうございました。
また、卒園後も力仕事が必要なときは声を掛けてください。