2007年度「卒園のしおり」から(10)
【かけがえのないものを得て・・・】 塩内 美春
今から約4年前。太一郎はくさぶえではなく公立の保育所で入園式を迎えました。まさか、卒園式をくさぶえで迎えようとは、その時の私達は想像もしていませんでした。
当時、3歳少し前の太一郎に対し私達は「言葉の遅い子だなぁ」程度にしか感じていなかったのですが、入園して間もなくの個人懇談の際、先生から太一郎の園での様子を聞かされ、明らかに「他の園児とは違っている」ということを突きつけられました。あのときの状況や動揺をとても鮮明に覚えていて、今でも思い出すと少し胸が痛みます。その日の帰り、「そういえば私、太一郎とまともに散歩したことがない・・・」そう気づいた途端、居ても立っても居られず、自宅から2キロ程離れた実家に向かい、太一郎と一緒に歩いていました。この時始めて、「5mもまともに手を繋いで歩けない我が子」「一生懸命語りかけても私の話す言葉の意味がぜんぜん理解できていない我が子」という現実にようやく気づいたのです。私は半ば太一郎を引きずる形で、泣きながら実家に到着した時には出発して3時間が経過していました。
給食とお昼寝以外は、ずっと保育園の門の南京錠を触り続ける太一郎を見て、私は「なんとなく我が子に感じていた違和感からはずっと目を背けてたのかもしれない・・・」と言う自責の念と「これからどうしたらいいんだろう」という強い不安感に苛まれていました。そして、5月のGW明けに、私達は退園届けを提出し、糸の切れた凧状態になり途方に暮れていました。
そんなある日、急にくさぶえの事を思い出しました。太一郎が2歳の夏真っ盛りの頃、雄飛のお母さんとフラリと訪れた時の事を・・・。今の花壇の所から、「ホントにここは保育園!?」と疑いながらそろりと入って来た私達に最初に声を掛けてくれたのは吉岡さんでした。「おやつの時間だから・・・」と言って室内に招き入れ、私達にも振る舞ってくれました。その横で、ちょっと音を外しながらピアノを弾いていたのは前田さんでした。ピアノの音が止んだと思ったら、前田さんは水着になりブルーシートプールにザブーンと浸かり、子ども達と遊び始めるかと思いきや、ボートに乗ってのんびり浮いていました。園内にお風呂があることを不思議に眺めていると、そこでは双子の男の子をその母親がお風呂に入れている最中でした。この時の光景はこんなにもしっかりと記憶にあるのですが、私がこの時何を感じ取ったかは正直覚えていません。
だけど、その10ヶ月後には、くさぶえの園児となっていたのです。
そして、この時から、ようやく私の子育てがスタートしました。
くさぶえの園児となって3年10ヶ月。その間、太一郎にとっても、私達家族にとっても語り尽くせないほどの劇的な変化がありました。心から言えることは、太一郎は本当にくさぶえのみんなに「きっちり愛されて育っていった」ということです。これは、どんな素晴らしい教育よりも代え難いと実感しています。月並みな言葉ですが、言い尽くせない感謝の気持ちでいっぱいです。
しかし、以前、前田さんは「どんな保育を受けるにしたって、親がいかに育つかにかかっている」と言われましたが、これは本当に身に詰まる思いであります。年長になった太一郎に、私はいつのまにか過度な期待を寄せていたのだということを見せつけられる出来事がありました。今年に入り、残り2ヶ月ちょっとで卒園、という頃から毎週末になると嘔吐を繰り返していました。1晩に20回程胆汁まで吐くため脱水にかかり、そのたびに点滴受診していました。小児科の先生には「自家中毒だね。心と体のバランスがうまくいかない子や、繊細で神経質なタイプの子は10歳くらいまで繰り返すよ。」とあっさり言われました。太一郎は以前から体調が優れないと嘔吐が出現するのですが、年長のお泊まりが始まった頃から、かなり頻回にしかも重度になってきました。最初は「もう少しで卒園なのに・・・どうしてこんな貴重な時期に・・・」と私だけが焦っていました。
そんな状態なだけに当然、太一郎も「お泊まりはいや!」と言い続けていました。私も、表面上受け入れたものの心の中では「他の年長さんと同じように・・・」と願い、太一郎を煽れば煽るほど症状は強くなっていきました。そんな焦る私に、前田さんは「太一郎なりに『みんなに付いていこう』と頑張っている。でもやっぱり心と体が付いていかないこともある。もう少し待っててあげて。お母さんが良い意味で諦めたときに太一郎は元気になるから・・・」と言いました。
その後、追い打ちを掛けるように、沖縄卒園旅行の10日前にインフルエンザに感染し、「沖縄にだけは行かせたい!」と強く願っていましたが、「これが太一郎なんだから仕方ない。沖縄行けなかったら、卒園までゆっくりしようね。」とポジティブに現状を受け入れることができた途端、状況が変わってきたのです。
そして、先日、元気いっぱい沖縄から、心なしか逞しくなって帰って来ました。
現時点での私の持論での「子育て」は親から子どもへ一方的に行うものではないということにようやくたどり着きました。太一郎が本来持っている「育つ力」が、少しずつ私達親を「それらしいもの」に導いてくれるのだと思っています。そして、未熟な私にとって、それは親子だけの力では及ばないということです。
その課程には、周期的に訪れる辛い時期に「困難な時にこそチャンス!」と言わんばかりに、前田さんから「親が育つため」のヒントを与えていただいてきたなあと痛感します。
最後に、この3年10ヶ月間、前田さんにはいつも「太一郎のお母さんって我が子のことにすごく客観的だし、結構冷静で、お母さんっぽくないよね。」と言われ続けました。しかし、冒頭のような動揺は、今でもしょっちゅうありますし、今も不安でいっぱいです。ただ、あまり表面化されず、傍目そのように映るのは「それも私」なのでしょう。そこは、太一郎もしっかり受け継いだということで、太一郎の「自家中毒」とも10歳までお付き合いしていこうと思います。
そして、これからも「親育ち」のヒントをいただくため、ご迷惑掛けない程度にくさぶえとは細々と繋がっていくつもりですので何卒よろしくお願いします。
共同保育園にも関わらず、皆さんに頼りっぱなしで何も出来なかったことが本当に心残りです。
これからは、何かの形で力になれることを探っていきたいと思います。
くさぶえの皆さま本当にありがとうございました。 2008年3月吉日