2007年度「卒園のしおり」から(7)

【優貴子】  銖藤 誠

 優貴子が産まれた日は、自分と同じ誕生日!感動であった。しかし、産まれてくるまでには色々な出来事があった。直子の妊娠したかも?の言葉で始まり、内心やった-の喜び、そして病院に行って診察、先生に呼ばれて言われた言葉が子宮外妊娠です。えっ?なに?それってどういう事?つまり赤ちゃんは無理です。すぐに入院の手続きをして、手術しないといけません、と言わて何が何なのか分からず、ボー然とした。直子も、かなりのショックを受けていた。自分の中で、これは何かの間違いだ、誤診だ、このヤブ医者め!納得いかない!ショックでボー然とする直子に違う病院に行こう、つらいと思うけど違う病院に行ってもう一度診察してもらおう、それでも同じだったら諦めようと直子に言って違う病院に行った。そして診察、看護婦さんから笑顔で大丈夫ですよ、今はまだ小さいけど子宮外妊娠じゃないですよ、おめでとうございます、と言われた。あの時の看護婦さんの笑顔は今でも忘れない。直子と二人で初めて手にした赤ちゃんのエコーの写真、感動だった。

 そして月日が流れ予定日より4日早く、2月14日に優貴子が産声をあげた。二人で泣いた。色々あった一年だったが、直子が頑張ってくれたお陰であった。そして毎日、病院へ優貴子の顔を見に行く親バカの日々だった。そして退院、直子の実家での療養、ここでも毎日、顔を見たいが為に通い、泊まりの日には、添い寝をして夜中に何回も起きては潰してはいないか確認、そして、あ~可愛い、食べてしまいたい、と思い、時には、早くも優貴子が夢の中で結婚式を挙げている夢を見て枕を濡らした事もあった。

 それから月日が流れ優貴子が一歳半を過ぎた頃に岐阜への転属が決まり現在に至ります。最初に優貴子の様子が何か違うと感じたのは直子だった。そして市役所で紹介された「福祉の里」に入った。今を思えば無駄な時間を過ごした一年であったかもしれない。直子も大変だったし、優貴子も大変だったと思う。まだ一歳にも満たない慶一郎にも、かなりの負担をかけていた。その中でも直子は何か違う、このままでは優貴子は変わらない、ダメになるような気がすると言っていた。その中で直子は何かを見つけようと必死だった。そして、浅野幸恵さんの本に出会い、何かを感じ、浅野さんに逢って話をしたいと言った。偶然にも浅野さんは岐阜に住んでいる方と分かり、その人の所に行って話を聞きに行く事になった。家族で浅野さんの家に行き、話を聞いている内に今の「くさぶえ保育園」の存在を知った。その日は土曜日だったが保育園を見に行こうと思い、行ったが休みであった。そして別の日に直子が、くさぶえを見に行った。その日の夕方には優貴子を、くさぶえに入れたいと言った。自分も後日、見に行き正直、懐かしいような自分の育った田舎の保育園に似てるなと思った。たしか、あの時は数人の子供達と文ちゃんが居て、すごくのんびりとしていた風景だったような気がする。正直この時は、まだこの「くさぶえ」の保育とは「未知との遭遇」であった。この時、優貴子は3才だった。この卒園までの約3年あまり、色んな事があった。あり過ぎて言葉では語り尽くせないくらいの思い出がある。親が変わらないと子供も変わらないのよ!と、その他もろもろ、かなりの綾子節を聞きました。そんな、綾子さんも何らかんら言いながら、優貴子の手を引いている姿を見た時は、心熱くなる思いを感じました。この保育園に優貴子を入園して良かったと思う場面であった。回りの友達、他のお父さん、お母さん、保育園の先生方に支えられ、見守られて、泣いた時もありの色んな事がありましたが、優貴子はモミくちゃになりながらも成長したのではないかと思います。優貴子の元気に遊ぶ姿や笑顔をいっぱい見せてもらいました。この「くさぶえ保育園」を卒園?するにあたり、いや、言葉の上では卒園かもしれませんが、まだまだ教えを請うことがいっぱいあると思いますが、ひとつの節目ではないですが、卒園という言葉を借りて終わりたいと思います。もう少し早く、この「くさぶえ保育園」を知っていればと思うと心残りですが・・・・短い保育ではありましたが、本当に感謝でいっぱいです。ありがとうございました。

2007年度「卒園のしおり」から(8)

【優貴子と共に】  銖藤 直子

 小さくて、泣き虫優貴子がたくましく大きく成長した。優貴子の事をどうしても受け止める事ができず、本当に辛かった。何で食べないの?どうして歩かないの?何で一人でどこかに行ってしまうの?わからない事だらけ。どうしてうちの子だけ他の子と違うの?そんな優貴子と過ごして6年。本当に色々な出会いがあり、たくさんの人達の協力、支えあり今日があります。一番はこの保育園に出会えた事。私達の人生を大きく変えました。くさぶえに出会えた私達、幸せです。一番幸せなのは、優貴子。
 以前、休みの日に徳川美術館にみんなで行った時、前田さんがずっと、優貴子の手を引き、歩いている姿を見て胸一杯になりました。その時、教えられました。手を引く事の大切さ。優貴子と手をつなぎ、前を向いてゆっくり歩んで行こうと思いました。やっと優貴子を受け入れる事が出来るようになってきた。今、心から思う事。優貴子本当に本当にお母さんの子供に生まれて来てくれてありがとう。
 ゆきちゃん大好き!ゆっくりゆきちゃんがいたから、気付いた事、一杯あった。たくさん気付かせてくれた。ありがとう。子供に教えられる事ばかり。ゆっくりゆきちゃんとてきぱきお母さん…合ってないけど、優貴子の手を引き、前を向いてゆっくり、ゆっくり歩んで行こうと思う。
 最後に職員の方々、たくさんのお父さん、お母さん、本当にありがとうございました。

優貴子、卒園おめでとう。

2007年度「卒園のしおり」から(9)

【退職した理由】  塩内 直二郎

 私は現在1児の父親でありながら理学療法士の専門学校の3年生で、また主夫である。何故、脱サラをし、家族に負担をかけてまで理学療法士になる決意に至ったのかを書かせていただきたいと思います。
 私は工業系の高校を卒業後、建設業の中では中堅ゼネコンにあたる会社に就職し、34歳までの16年間勤務してきました。当時、世の中はまだバブル経済の余韻の残った時期で中堅から大手企業への就職が容易な時代でした。私の会社もその頃大変景気がよく、入社した年は「なんと凄いところに就職したのだろう」とつくづく思ったものです。毎週のように行われた高級料亭での親睦会、年二回の旅行、ゴルフなどなど。こんな生活のおかげで就職3年目頃にはすっかりおやじ体型と変貌し、その頃の写真は封印してしまいたいほどひどいものです。私はトンネル工事を専門とし、徳山、恵那、谷汲、本巣など様々なトンネル工事に携わり、しんどいこともありましたがそれなりにやりがいを持ち働いていました。しかし、それから間もなくバブル経済の崩壊ともに、会社も厳しい状況におかれ、平成12年には事実上の倒産、後に民事再生法適応で存続したものの、会社も大幅に縮小し、当時2300人いた社員も1000人まで人員削減されました。所帯持ちから独身の社員まで次々とリストラされていく様を目の当たりにし、強い空虚感に襲われました。大型公共工事などのトンネルやダム建設の受注は激減し(無くなって)、この頃を境に私の仕事に対するモチベーションは低下、その一方で会社に残った我々の仕事量は何倍も増し、毎月100時間以上の残業を強いられる状況でした。この頃の数年間は心も体も全く余裕がなかったため、私のストレスから妻との衝突も絶えませんでした。私はこのような生活が本当に嫌であり、会社への不信感も大きくなりました。
そして、平成13年に太一郎が誕生してからは、太一郎の父親として健康な体と心で向かい合うためにもこのままではいけない、と退職を強く意識するようになりました。
太一郎が4歳のとき、私は単身で岐阜と富山の県境である災害復旧の激務現場に配属されました。
当時、太一郎はくさぶえでの生活が馴染み始めた頃で、育ちの遅れもあったため夫婦で力を合わせることが太一郎にとって何より大切なことだと痛感していました。単身生活をすることで、「太一郎が著しく成長を遂げるこの貴重な時間をともに過ごすことのできない」「家族揃って毎日を送ることが出来ない」と思うと、「これはおかしい、なんのための人生なのだろう」と、ついに退職に踏み切ったのです。
しかし、今後の生活に対しての不安は莫大であり、何よりも妻に負担をかけてしまうという苦しみとともに、太一郎の父親にとってこの決断は本当によかったのだろうかという強い葛藤もありました。
そんなある日、妻が私に言いました。「どうせ次の仕事をするにせよあと25年もある。何か勉強して、しっかり力をつけて再スタートしたほうが絶対にいい!少し自分に投資したら?」と。こんな大胆な妻の助言が私の背中を押し、以前からボディーワークに興味があったことから理学療法士への道を歩む決意をしました。
早速、転換の為の準備を始めましたが、志望校の倍率は高く、16年間一般教科から離れた当時の私では入試をクリアすることすら無理だろうと更なる不安が訪れました。しかし、この時の私には他の選択肢はなく、自分と家族のためにも必ず成し遂げようと決意をし、無我夢中で頑張り、予備校にも通い、自宅でもただひたすら勉強し続けました。私の今までの人生で、あれほどまで勉強をした記憶はなく、大変苦労しましたが、その苦労の甲斐もあってか無事合格し、この春3年目(卒業年次)を迎えることができました。しかし勉強は想像以上に困難をきたしており、まさしく勉強は自分との戦いであると痛感しています。
今の生活も決して楽ではなく、大変厳しい時期ではありますが、太一郎の成長や変化を毎日の生活の中で感じ取ることができ充実した日々を過ごせていることを、心から妻に感謝したいと思います。
私はこの2年間を通し「これがしたい!」ということが見つかった時、懸命に努力をすれば実現不可能ではないと体験を通し自分なりに確信しています。太一郎にもいつかこのような気持ちを持てるよう、今の自分の姿から伝えられればと願っています。
4月から太一郎は小学校に入学。不安はたくさんありますが、前向きに見守っていきたいです。
  卒園に向けての文集ということで筆をとりましたが、自分史となってしまいました。最後に前田さんを始め、くさぶえ保育園の皆様には3年10ヶ月の間、大変お世話になり心から感謝しております。本当にありがとうございました。
 また、卒園後も力仕事が必要なときは声を掛けてください。

2007年度「卒園のしおり」から(10)

【かけがえのないものを得て・・・】  塩内 美春

 今から約4年前。太一郎はくさぶえではなく公立の保育所で入園式を迎えました。まさか、卒園式をくさぶえで迎えようとは、その時の私達は想像もしていませんでした。
当時、3歳少し前の太一郎に対し私達は「言葉の遅い子だなぁ」程度にしか感じていなかったのですが、入園して間もなくの個人懇談の際、先生から太一郎の園での様子を聞かされ、明らかに「他の園児とは違っている」ということを突きつけられました。あのときの状況や動揺をとても鮮明に覚えていて、今でも思い出すと少し胸が痛みます。その日の帰り、「そういえば私、太一郎とまともに散歩したことがない・・・」そう気づいた途端、居ても立っても居られず、自宅から2キロ程離れた実家に向かい、太一郎と一緒に歩いていました。この時始めて、「5mもまともに手を繋いで歩けない我が子」「一生懸命語りかけても私の話す言葉の意味がぜんぜん理解できていない我が子」という現実にようやく気づいたのです。私は半ば太一郎を引きずる形で、泣きながら実家に到着した時には出発して3時間が経過していました。
 給食とお昼寝以外は、ずっと保育園の門の南京錠を触り続ける太一郎を見て、私は「なんとなく我が子に感じていた違和感からはずっと目を背けてたのかもしれない・・・」と言う自責の念と「これからどうしたらいいんだろう」という強い不安感に苛まれていました。そして、5月のGW明けに、私達は退園届けを提出し、糸の切れた凧状態になり途方に暮れていました。
 そんなある日、急にくさぶえの事を思い出しました。太一郎が2歳の夏真っ盛りの頃、雄飛のお母さんとフラリと訪れた時の事を・・・。今の花壇の所から、「ホントにここは保育園!?」と疑いながらそろりと入って来た私達に最初に声を掛けてくれたのは吉岡さんでした。「おやつの時間だから・・・」と言って室内に招き入れ、私達にも振る舞ってくれました。その横で、ちょっと音を外しながらピアノを弾いていたのは前田さんでした。ピアノの音が止んだと思ったら、前田さんは水着になりブルーシートプールにザブーンと浸かり、子ども達と遊び始めるかと思いきや、ボートに乗ってのんびり浮いていました。園内にお風呂があることを不思議に眺めていると、そこでは双子の男の子をその母親がお風呂に入れている最中でした。この時の光景はこんなにもしっかりと記憶にあるのですが、私がこの時何を感じ取ったかは正直覚えていません。
 だけど、その10ヶ月後には、くさぶえの園児となっていたのです。
そして、この時から、ようやく私の子育てがスタートしました。

 くさぶえの園児となって3年10ヶ月。その間、太一郎にとっても、私達家族にとっても語り尽くせないほどの劇的な変化がありました。心から言えることは、太一郎は本当にくさぶえのみんなに「きっちり愛されて育っていった」ということです。これは、どんな素晴らしい教育よりも代え難いと実感しています。月並みな言葉ですが、言い尽くせない感謝の気持ちでいっぱいです。
 しかし、以前、前田さんは「どんな保育を受けるにしたって、親がいかに育つかにかかっている」と言われましたが、これは本当に身に詰まる思いであります。年長になった太一郎に、私はいつのまにか過度な期待を寄せていたのだということを見せつけられる出来事がありました。今年に入り、残り2ヶ月ちょっとで卒園、という頃から毎週末になると嘔吐を繰り返していました。1晩に20回程胆汁まで吐くため脱水にかかり、そのたびに点滴受診していました。小児科の先生には「自家中毒だね。心と体のバランスがうまくいかない子や、繊細で神経質なタイプの子は10歳くらいまで繰り返すよ。」とあっさり言われました。太一郎は以前から体調が優れないと嘔吐が出現するのですが、年長のお泊まりが始まった頃から、かなり頻回にしかも重度になってきました。最初は「もう少しで卒園なのに・・・どうしてこんな貴重な時期に・・・」と私だけが焦っていました。
 そんな状態なだけに当然、太一郎も「お泊まりはいや!」と言い続けていました。私も、表面上受け入れたものの心の中では「他の年長さんと同じように・・・」と願い、太一郎を煽れば煽るほど症状は強くなっていきました。そんな焦る私に、前田さんは「太一郎なりに『みんなに付いていこう』と頑張っている。でもやっぱり心と体が付いていかないこともある。もう少し待っててあげて。お母さんが良い意味で諦めたときに太一郎は元気になるから・・・」と言いました。
 その後、追い打ちを掛けるように、沖縄卒園旅行の10日前にインフルエンザに感染し、「沖縄にだけは行かせたい!」と強く願っていましたが、「これが太一郎なんだから仕方ない。沖縄行けなかったら、卒園までゆっくりしようね。」とポジティブに現状を受け入れることができた途端、状況が変わってきたのです。
そして、先日、元気いっぱい沖縄から、心なしか逞しくなって帰って来ました。

 現時点での私の持論での「子育て」は親から子どもへ一方的に行うものではないということにようやくたどり着きました。太一郎が本来持っている「育つ力」が、少しずつ私達親を「それらしいもの」に導いてくれるのだと思っています。そして、未熟な私にとって、それは親子だけの力では及ばないということです。
その課程には、周期的に訪れる辛い時期に「困難な時にこそチャンス!」と言わんばかりに、前田さんから「親が育つため」のヒントを与えていただいてきたなあと痛感します。

 最後に、この3年10ヶ月間、前田さんにはいつも「太一郎のお母さんって我が子のことにすごく客観的だし、結構冷静で、お母さんっぽくないよね。」と言われ続けました。しかし、冒頭のような動揺は、今でもしょっちゅうありますし、今も不安でいっぱいです。ただ、あまり表面化されず、傍目そのように映るのは「それも私」なのでしょう。そこは、太一郎もしっかり受け継いだということで、太一郎の「自家中毒」とも10歳までお付き合いしていこうと思います。
そして、これからも「親育ち」のヒントをいただくため、ご迷惑掛けない程度にくさぶえとは細々と繋がっていくつもりですので何卒よろしくお願いします。

 共同保育園にも関わらず、皆さんに頼りっぱなしで何も出来なかったことが本当に心残りです。
これからは、何かの形で力になれることを探っていきたいと思います。
くさぶえの皆さま本当にありがとうございました。    2008年3月吉日

2007年度「卒園のしおり」から(11)

【ゆっくり、年長のゆきちゃん。】  上野 珠美
 
 私がくさぶえ保育園で働きはじめて、倖平君、舞幸ちゃん、園ちゃん、太一郎君のクラスを担任して約1年半が過ぎる頃、私は一人の子を担当する事になりました。それがとても小さなゆきちゃんでした。
 ゆきちゃんが入園したのは、今から約2年半前の2005年8月18日(木)でした。入園したばかりのゆきちゃんはとても不安な表情をして、ずっとお母さんを探すようにウロウロと歩き「ママ-」と泣き続け、だんだんと慣れるまでの約1ヶ月半、いっぱいいっぱい泣きました。最初は、話しかけても「バイバイ」と言われてしまい、少し寂しかったです。イヤ!、ここにいたくない、という時はいつも泣きながら「バイバイ」と言っていました。
 そんなゆきちゃんが唯一落ち着けた場所はベビーカーでした。不安になるとベビーカーに自分で乗って、ゆきちゃんと2人でよく散歩に出かけたのを憶えています。ベビーカー(散歩)大好き、お父さん大好き、歌やリズム大好きなゆきちゃん。だんだんと保育園に慣れてきて、夕方まで外遊びも夢中で、大好きになりました。「いっちゃん、ずず」とみんなの名前を呼ぶようになり、「だまさん、だまさん」と呼んでくれるようになった時、笑ってくれるようになった時、私は本当にほんと~に嬉しかったです。
 それから約2年半後の今、年長さん。1・2年前はみんなと関わる事が本当に少なかったゆきちゃんが、汽車組の子とすごく楽しそうに遊んだり、一心とすごい喧嘩をするようになりました。そしてえりちゃんが生まれてからのゆきちゃんは「お姉さんゆきちゃん」になりました。えいしょう君や長良ちゃん、小さい子にとても優しいゆきちゃんになりました。
 そして何よりもゆきちゃんの成長を感じたのは、沖縄での公開保育のゆきちゃんの姿でした。今回のリズムは2日間行われ、午前2時間、午後2時間と長い時間、自分たちがリズムをしないときは正座で待つ。午後の最後の方は「眠たくなっちゃった」と言ってはいたけれど、長い時間本当に姿勢よく座って、みんなのリズムを静かにずっと見ることができました。とても大きくなったゆきちゃんは5人の真剣な年長の一人として、そこに座っていました。とても楽しそうにリズムをする姿、竹のぼりで泣くこともあったけど、両生類ハイでは自分で交互の足の親指を返していたのには驚きました。長かったようでとてもとても短かった私にとっての4年間。ゆきちゃん、舞幸ちゃん、園ちゃん、倖平くん、太一郎くん5人の年長との時間は、私にとって、わたしの保育生活にとって、とても大切な時間になりました。
 卒園おめでとう。その素敵な笑顔で、ゆっくり、ゆっくり大きくなってね。

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