2007年度「卒園のしおり」から(5)

【そのの卒園】  浅野 正

 うちのそのが、卒園するなんてぜんぜん信じられない。本当に今年小学生になるなんて、なにかぜんぜん知らないうちに大きくなったんだと思った。それもそのはず、ほとんど家でも保育園でも何をしていたか知らないし、知ろうともしないからだ。会話といっても朝食の1時間くらいしかなく、「保育園楽しいか」「うん、楽しい」このくらいの会話で終わり、もう違う話になってしまうからだ。この時間しかないのにと思いつつ、元気な顔が見れればそれで安心してしまう自分があるからだと思う。他の子のお父さんはどうなんだろか?

 そのような事を考えると、子ども達は、父親をどう見ているのだろうか?休みもほとんどなく、一緒に居る時間も少ない事を考えると、なんだか想像すると居ても居なくてもいいような感じがして怖い、そんな事はないと思うが、どうなんだろうか?少しでもいい存在に見ていてくれることを願いたい。そう思いつつ、これからも自分なりに努力していきたいと思う。

2007年度「卒園のしおり」から(6)

【そのの卒園に向けて】  浅野 千保

そのは生後4ヶ月から母子通園をし、1歳1ヶ月から入園した。
私は保育料のため、お店以外の仕事も始めた。
くさぶえ保育園に子どもを通わせるために、生活ががらりと変わった。
家族が大きく揺れた。
我が家は、くさぶえから離れたほうが、いいのだろうかと考えた。
自分が変わらなければ、どこにいても一緒なんだと思った。
ずっと忙しかった。今年は特に、何をしているのかわからないくらい忙しかった。
そのは、家ですごく泣く。
自分の存在をアピールしている。
夜も会えない日が続いたり、いて欲しいときに私がいないことも多かった。
寂しい思いをさせているという意識は、ずっとある。
次女として生まれてきた、そのの複雑な気持ちを、私はなかなか理解できない。
今まで、私は子ども達の心に寄り添って、子どもの気持ちを大切にしてこられなかったように思う。
親の生きる姿勢をみて・感じて育つのだから、自分が大事に生きよう、と思った。
自分自身の目で見、心で感じたことで、自分の判断をしようと思った。
これからも、夜や子どもの望むときに私がいないことは多い。
時間を作れ、ゆっくりできるのは朝しかない・お店の事もしっかりやっていこうと思い、仕事をやめた。
朝を家族の大事な時間にしていこうと思っている。
家族が協力し合って、必死にお店をやっていく、それが浅野家の道なのだから、私は子ども達の心に寄り添っていけるようになりたい。

2007年度「卒園のしおり」から(7)

【優貴子】  銖藤 誠

 優貴子が産まれた日は、自分と同じ誕生日!感動であった。しかし、産まれてくるまでには色々な出来事があった。直子の妊娠したかも?の言葉で始まり、内心やった-の喜び、そして病院に行って診察、先生に呼ばれて言われた言葉が子宮外妊娠です。えっ?なに?それってどういう事?つまり赤ちゃんは無理です。すぐに入院の手続きをして、手術しないといけません、と言わて何が何なのか分からず、ボー然とした。直子も、かなりのショックを受けていた。自分の中で、これは何かの間違いだ、誤診だ、このヤブ医者め!納得いかない!ショックでボー然とする直子に違う病院に行こう、つらいと思うけど違う病院に行ってもう一度診察してもらおう、それでも同じだったら諦めようと直子に言って違う病院に行った。そして診察、看護婦さんから笑顔で大丈夫ですよ、今はまだ小さいけど子宮外妊娠じゃないですよ、おめでとうございます、と言われた。あの時の看護婦さんの笑顔は今でも忘れない。直子と二人で初めて手にした赤ちゃんのエコーの写真、感動だった。

 そして月日が流れ予定日より4日早く、2月14日に優貴子が産声をあげた。二人で泣いた。色々あった一年だったが、直子が頑張ってくれたお陰であった。そして毎日、病院へ優貴子の顔を見に行く親バカの日々だった。そして退院、直子の実家での療養、ここでも毎日、顔を見たいが為に通い、泊まりの日には、添い寝をして夜中に何回も起きては潰してはいないか確認、そして、あ~可愛い、食べてしまいたい、と思い、時には、早くも優貴子が夢の中で結婚式を挙げている夢を見て枕を濡らした事もあった。

 それから月日が流れ優貴子が一歳半を過ぎた頃に岐阜への転属が決まり現在に至ります。最初に優貴子の様子が何か違うと感じたのは直子だった。そして市役所で紹介された「福祉の里」に入った。今を思えば無駄な時間を過ごした一年であったかもしれない。直子も大変だったし、優貴子も大変だったと思う。まだ一歳にも満たない慶一郎にも、かなりの負担をかけていた。その中でも直子は何か違う、このままでは優貴子は変わらない、ダメになるような気がすると言っていた。その中で直子は何かを見つけようと必死だった。そして、浅野幸恵さんの本に出会い、何かを感じ、浅野さんに逢って話をしたいと言った。偶然にも浅野さんは岐阜に住んでいる方と分かり、その人の所に行って話を聞きに行く事になった。家族で浅野さんの家に行き、話を聞いている内に今の「くさぶえ保育園」の存在を知った。その日は土曜日だったが保育園を見に行こうと思い、行ったが休みであった。そして別の日に直子が、くさぶえを見に行った。その日の夕方には優貴子を、くさぶえに入れたいと言った。自分も後日、見に行き正直、懐かしいような自分の育った田舎の保育園に似てるなと思った。たしか、あの時は数人の子供達と文ちゃんが居て、すごくのんびりとしていた風景だったような気がする。正直この時は、まだこの「くさぶえ」の保育とは「未知との遭遇」であった。この時、優貴子は3才だった。この卒園までの約3年あまり、色んな事があった。あり過ぎて言葉では語り尽くせないくらいの思い出がある。親が変わらないと子供も変わらないのよ!と、その他もろもろ、かなりの綾子節を聞きました。そんな、綾子さんも何らかんら言いながら、優貴子の手を引いている姿を見た時は、心熱くなる思いを感じました。この保育園に優貴子を入園して良かったと思う場面であった。回りの友達、他のお父さん、お母さん、保育園の先生方に支えられ、見守られて、泣いた時もありの色んな事がありましたが、優貴子はモミくちゃになりながらも成長したのではないかと思います。優貴子の元気に遊ぶ姿や笑顔をいっぱい見せてもらいました。この「くさぶえ保育園」を卒園?するにあたり、いや、言葉の上では卒園かもしれませんが、まだまだ教えを請うことがいっぱいあると思いますが、ひとつの節目ではないですが、卒園という言葉を借りて終わりたいと思います。もう少し早く、この「くさぶえ保育園」を知っていればと思うと心残りですが・・・・短い保育ではありましたが、本当に感謝でいっぱいです。ありがとうございました。

2007年度「卒園のしおり」から(8)

【優貴子と共に】  銖藤 直子

 小さくて、泣き虫優貴子がたくましく大きく成長した。優貴子の事をどうしても受け止める事ができず、本当に辛かった。何で食べないの?どうして歩かないの?何で一人でどこかに行ってしまうの?わからない事だらけ。どうしてうちの子だけ他の子と違うの?そんな優貴子と過ごして6年。本当に色々な出会いがあり、たくさんの人達の協力、支えあり今日があります。一番はこの保育園に出会えた事。私達の人生を大きく変えました。くさぶえに出会えた私達、幸せです。一番幸せなのは、優貴子。
 以前、休みの日に徳川美術館にみんなで行った時、前田さんがずっと、優貴子の手を引き、歩いている姿を見て胸一杯になりました。その時、教えられました。手を引く事の大切さ。優貴子と手をつなぎ、前を向いてゆっくり歩んで行こうと思いました。やっと優貴子を受け入れる事が出来るようになってきた。今、心から思う事。優貴子本当に本当にお母さんの子供に生まれて来てくれてありがとう。
 ゆきちゃん大好き!ゆっくりゆきちゃんがいたから、気付いた事、一杯あった。たくさん気付かせてくれた。ありがとう。子供に教えられる事ばかり。ゆっくりゆきちゃんとてきぱきお母さん…合ってないけど、優貴子の手を引き、前を向いてゆっくり、ゆっくり歩んで行こうと思う。
 最後に職員の方々、たくさんのお父さん、お母さん、本当にありがとうございました。

優貴子、卒園おめでとう。

2007年度「卒園のしおり」から(9)

【退職した理由】  塩内 直二郎

 私は現在1児の父親でありながら理学療法士の専門学校の3年生で、また主夫である。何故、脱サラをし、家族に負担をかけてまで理学療法士になる決意に至ったのかを書かせていただきたいと思います。
 私は工業系の高校を卒業後、建設業の中では中堅ゼネコンにあたる会社に就職し、34歳までの16年間勤務してきました。当時、世の中はまだバブル経済の余韻の残った時期で中堅から大手企業への就職が容易な時代でした。私の会社もその頃大変景気がよく、入社した年は「なんと凄いところに就職したのだろう」とつくづく思ったものです。毎週のように行われた高級料亭での親睦会、年二回の旅行、ゴルフなどなど。こんな生活のおかげで就職3年目頃にはすっかりおやじ体型と変貌し、その頃の写真は封印してしまいたいほどひどいものです。私はトンネル工事を専門とし、徳山、恵那、谷汲、本巣など様々なトンネル工事に携わり、しんどいこともありましたがそれなりにやりがいを持ち働いていました。しかし、それから間もなくバブル経済の崩壊ともに、会社も厳しい状況におかれ、平成12年には事実上の倒産、後に民事再生法適応で存続したものの、会社も大幅に縮小し、当時2300人いた社員も1000人まで人員削減されました。所帯持ちから独身の社員まで次々とリストラされていく様を目の当たりにし、強い空虚感に襲われました。大型公共工事などのトンネルやダム建設の受注は激減し(無くなって)、この頃を境に私の仕事に対するモチベーションは低下、その一方で会社に残った我々の仕事量は何倍も増し、毎月100時間以上の残業を強いられる状況でした。この頃の数年間は心も体も全く余裕がなかったため、私のストレスから妻との衝突も絶えませんでした。私はこのような生活が本当に嫌であり、会社への不信感も大きくなりました。
そして、平成13年に太一郎が誕生してからは、太一郎の父親として健康な体と心で向かい合うためにもこのままではいけない、と退職を強く意識するようになりました。
太一郎が4歳のとき、私は単身で岐阜と富山の県境である災害復旧の激務現場に配属されました。
当時、太一郎はくさぶえでの生活が馴染み始めた頃で、育ちの遅れもあったため夫婦で力を合わせることが太一郎にとって何より大切なことだと痛感していました。単身生活をすることで、「太一郎が著しく成長を遂げるこの貴重な時間をともに過ごすことのできない」「家族揃って毎日を送ることが出来ない」と思うと、「これはおかしい、なんのための人生なのだろう」と、ついに退職に踏み切ったのです。
しかし、今後の生活に対しての不安は莫大であり、何よりも妻に負担をかけてしまうという苦しみとともに、太一郎の父親にとってこの決断は本当によかったのだろうかという強い葛藤もありました。
そんなある日、妻が私に言いました。「どうせ次の仕事をするにせよあと25年もある。何か勉強して、しっかり力をつけて再スタートしたほうが絶対にいい!少し自分に投資したら?」と。こんな大胆な妻の助言が私の背中を押し、以前からボディーワークに興味があったことから理学療法士への道を歩む決意をしました。
早速、転換の為の準備を始めましたが、志望校の倍率は高く、16年間一般教科から離れた当時の私では入試をクリアすることすら無理だろうと更なる不安が訪れました。しかし、この時の私には他の選択肢はなく、自分と家族のためにも必ず成し遂げようと決意をし、無我夢中で頑張り、予備校にも通い、自宅でもただひたすら勉強し続けました。私の今までの人生で、あれほどまで勉強をした記憶はなく、大変苦労しましたが、その苦労の甲斐もあってか無事合格し、この春3年目(卒業年次)を迎えることができました。しかし勉強は想像以上に困難をきたしており、まさしく勉強は自分との戦いであると痛感しています。
今の生活も決して楽ではなく、大変厳しい時期ではありますが、太一郎の成長や変化を毎日の生活の中で感じ取ることができ充実した日々を過ごせていることを、心から妻に感謝したいと思います。
私はこの2年間を通し「これがしたい!」ということが見つかった時、懸命に努力をすれば実現不可能ではないと体験を通し自分なりに確信しています。太一郎にもいつかこのような気持ちを持てるよう、今の自分の姿から伝えられればと願っています。
4月から太一郎は小学校に入学。不安はたくさんありますが、前向きに見守っていきたいです。
  卒園に向けての文集ということで筆をとりましたが、自分史となってしまいました。最後に前田さんを始め、くさぶえ保育園の皆様には3年10ヶ月の間、大変お世話になり心から感謝しております。本当にありがとうございました。
 また、卒園後も力仕事が必要なときは声を掛けてください。

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