2008年度「入園のしおり」から

【入園、進級 おめでとうございます】  吉岡 晴美
 
 卒園式後の希望保育の初日から「今日から年長さんだヨ」とユウヒとケイイチロウ。シュウくんも「もう新幹線組になったよ」と目を輝かせて登園してきました。子ども達のエネルギーは暖かい春を迎え全開しているようです。クラスの名前など聞かれもしないのに「しゃち組がいい」とか「いるか組がいい」とかいろいろな声が聞こえてきたので、年長、年中(4,5歳児)を集めて聞いてみると、ちゃんと1人ずつ答え、その理由を尋ねるとちゃんと答えるので驚くばかりでした。
 というわけでクラス名を決定するのは、至難の業。「前田が来てから決めるでネ」としめくくったのはいいけど、その後、子ども達同士で「鹿よりもロケットのほうがカッコいいよ」と説明にかかっている姿にもまた感動するばかりです。
 
 出産した直後から始まった試行錯誤の子育て。答えのない、終わりのない大事業のかけだしの6年間は、ものすごいとてつもなく大きな力を蓄える時期だと思います。その時期にこのくさぶえに出会えた子ども達とご両親は、つらいことも楽しいことも悲しいことも大変なことも共有し、共感し、共に育ち合える機会を与えられたのだと思います。大人も(職員も含めて)子どもも仲間とともに育っていきましょう。
 
 昨年度は特にくさぶえのおかげでこんなに我が子が立派に育って・・・と思う事件が多くありました。6歳までの根の育ちに本当に感動したものです。同じ感動を何年か後にみなさんにもぜひ・・・・と願っています。

2007年度「卒園のしおり」から(1)

【倖平の卒園にあたって】 土田 学

 生後三ヶ月で重度のアトピーと診断された倖平は、顔や膝裏だけでなく、頭皮もジュクジュクで髪の毛は抜け落ち、掻き毟っては出血してガーゼで包まないと抱っこも碌にできないような状態でした。ステロイド治療のリバウンドに疑問を感じた私たちは、休みの度に遠方の名医と言われる医者や漢方治療を尋ねて回り、アレルギーの検査では、ありとあらゆる食物が陽性と出て、家族は粗食に切り替え、無農薬などの食事を扱っている保育園を探していました。十ヶ月でくさぶえ保育園に来て「あなたたちはこの子のアトピーしか見ていない。痩せ細ってしまって発達も遅れている。」と前田さんに言われたことは、確かにその通りで衝撃的でした。アトピーを治せればそれでいいというような浅はかな考えがあったからだと思います。この頃の倖平は這い這いもできず、発達に必要な栄養は全く足りていませんでした。そして、これもこの頃は衝撃的でしたが、園ではオムツを常にはずしてもらい、思いっきり股関節を使えるようにして、裸足で土山の斜面や、前田さんの勧めで当時住んでい
たアパートの4階の階段も毎日自力で昇り降りする経験が得られました。ロールマットやリズムの成果もあって、全身の筋の発達はみるみるうちに逞しくなり、長男純平の二才の頃のポチャッとした体系と比べると、まるで比較にならないくらいでした。純平は「三つ子の魂百まで」「二才まではヒトから人間への最も大切な土台を作るとき」をくさぶえで経験できず、三才までテレビ、おもちゃ漬けにしていたため、倖平の成長ぶりを見ては、以前の育て方が本当に悔やまれてなりませんでした。倖平の成長ぶりは順調で、アトピーも完治し、全く問題ないように思え、年長になった日の姿を楽しみにていました。

 ところが、今から思うと倖平の三才の頃に「反抗期でてこずったなぁ」といった記憶がほとんどありません。この時期は純平の年長や小学校入学という方ばかりに目が向いてしまっており、そして倖平が四才になってからは三男の響平が生まれ、やはりそちらに掛りきりになりがちだったことなどから、真ん中の倖平はかなり辛い思いをしていたことと思います。描く絵を見てもいつも順調だと思っていた倖平でしたが、問題はだんだんと浮き彫りになってきました。年中始めの一ヶ月は登園拒否、そして年長になってからは、すっかり治まっていたはずの喘息発作が再燃し、三度の入退院を繰り返すなど、精神的にも体力的にも随分と遅れをとってしまいました。年長のお泊りは「いや」、何を頼んでも「いや、いや」がしばらく続きました。それから、今年に入って精神的な原因で起こる喘息の小発作は、華世のひと言をきっかけにして克服し、やっと年長らしさが出てきました。

 今年の年長は本当に色々な所へ行って、色々な経験をさせてもらいました。特に最後の一ヶ月は、お泊まりが何度もできたことを自信にして、また一回り大きくなったように感じます。気がつくと響平の面倒を見ていたり、ハムスターの世話やかごの掃除を自分からするようになって、体も思うようによく動くのをとても楽しんでいるようにみられてきました。この先、もう少し生意気でお調子者の腕白小僧が続くような気がしますが、少々遠回りした分、小学校へ行ってからも本当に遊びきるまで、勉強などは強いらないようにしていくつもりです。二才までの人間としての土台がしっかりと築かされていることを信じて・・・。

 倖平の姿を通して改めて感じたことは、本当に周りの環境(兄弟関係も含めて)や親の係わり方ひとつで、よくも悪くも子どもは変わるということでした。そういう意味では男の子三人、これから父親の姿を見たときに、今のままではいけない、こんな背中は見せられないと思い知らされ、自分も色んなことから逃げてばかりいないで、ぬるま湯にばかり浸かっていないで、これから先、自分や周りの色んな人としっかりと向き合っていかなければいけないと思いました。

根っこ

何もない場所だけれど 大切なものがある
あの頃のままの土のぬくもりや 緑の風が吹く
小さな歩幅だけど 確かに歩んできた
ひとつひとつまた乗り越えて 笑えた喜びがある
それは生きる力になり 道は続いてゆく
枝を折られても 葉っぱを飛ばされても 幹を倒されても
ここで育った 深く深くはった根っこが
あなたを支えている ずっと

移りゆく時の中で 変わらないものがある
形ではなくそこには本当の 飾らないものがある
小さな母趾だけど 大地を蹴ってきた
できなかったことができるようになった その時の自信がある
それは生きる力になり 道を照らしてゆく
枝を折られても 葉っぱを飛ばされても 幹を倒されても
ここで育った 深く深くはった根っこが
あなたを支えている ずっと

何もない場所だけれど 大切なものがある
厳しさの中にある本当の 優しさがここにある きっと

2007年度「卒園のしおり」から(2)

【こうちゃん 卒園おめでとう】  土田 華世

 倖平が年長になってからの1年間、本当に色々なことがありすぎてとても大変だったような気がします。
 倖平自身もたくさんのことに戸惑い悩んでいたのだろうと思います。今の私、今の倖平がここにいることがとても不思議です。
 倖平は夏の終わり頃から今年の1月まで、とにかく喘息の発作をくり返し、体力もおち体もとても細くやせてしまいました。もしかしたら、今、生きていることさえ奇跡なのかもしれません。
 
 喘息で何度も入院し、保育園もよく休んでいたので、倖平と過ごす時間はたくさんあったけど、倖平と本当の意味では向き合えておらず、母親なのに倖平がどういう子なのか理解できていませんでした。最後の懇談会で入園当時からの絵をみて改めて倖平の大変さにきづきました。今まで本当に倖平のことをみてなかったのです。今年に入ってから少しずつ倖平のことが理解でき、やっと向き合えるようになったと思います。
 
 自分の弱さを喘息でごまかしてにげようとしている倖平に対して「今度入院しても1人で病院にいてね、とうともかあかも仕事があるから。倖ちゃんが喘息で死んでも仕方がない。自分の命は自分で守らないと生きていけないんだから。」と冷たい言葉を言ったかもしれない。でも私は後悔はしていない。全ての過程があって、今の倖平がいるのだと思うから。
 沖縄に交流保育に行く前、倖平は私に「かあかが嫌だ。保育園におらんといて。」と自分の気持ちをぶつけてくれました。その時に倖平といろんな話をし、私もっと心から「よくがんばってるね、すごいね、こうちゃん。」と伝えることが出来ました。そして1つクリアするとまた1つと、求めるばかりの親であったことも、深く反省しました。

 数ヶ月前の倖平とはまるで別人のような倖平が私の目の前にいます。今の倖平は自信満々でかっこいい。
 自己肯定感というのは、周りの大人にただ愛され、ほめられて育てば得られるものではなく、それらを土台として、それらの励ましの中で自分で壁をのりこえていった時に、築きあげられるものだと倖平をみていて思いました。

 またお泊まりをするたびに仲間と楽しく過ごせるようになったのか、ゆきちゃんに抱きついて遊んでいる倖平をみかけるようになりました。私はそのことをとってもうれしく思いました。
 
 今、私が倖平に伝えたいこと、
   =よくがんばったね、こうちゃん 卒園おめでとう!=

 最後に、いつも私達家族を支えてくださった職員と父母のみなさま、子ども達のおじいちゃん、おばあちゃんに心から感謝します。

2007年度「卒園のしおり」から(3)

【理想と現実】  金武 孝浩

 桜の咲くなか、あと数日で、保育園に終りを告げる時が、やってこようとしています。
5年間お世話になったわけですが、私自身、協調性と体力がなく、人見知りなこともあり、行事などにあまり顔を出せませんでした。その為、娘の保育園での姿をほとんど知りません。ただ娘は、たくさんの友達や職員の方々、父母の皆さんに囲まれ、素晴らしい子に成長したと感じます。
 これからもこの5年間を礎とし、もっと、もっと自分を磨いていってほしいです。
いろいろお世話になり、ありがとうございました。

2007年度「卒園のしおり」から(4)

「くさぶえと舞幸と私」  金武佳代

 舞幸は、くさぶえ保育園が好きで好きでたまらない、という感じが見ていてよく分かる。この5年間一度たりとも「保育園いや!」「行きたくない!!」と言ったことがない。病気になると大好きな保育園に行けなくなるから(?)病気らしい病気をしたことがない(笑)。
 朝が来るのが待ち遠しくて、朝食を食べ保育園の用意が出来ると玄関先で私を急かす。夕方、迎えに行くと「もっと遊びたい!」となかなか帰ろうとしない。

 舞幸が生まれてから6年と5ヶ月・・・心身共に成長してきた中に“くさぶえ”が大半以上を占めている。そしてこれから成長していく為の土台となるのだろう。
・・・。
 さて、私は初めてくさぶえを訪れたときに見た子どもの絵に感動したことが忘れられず「ここしかない!」と思い、旦那の理解を得られないまま半ば強行突破で舞幸を入園させた。理解が得られないということはもちろん協力も得られず(金銭面以外の)、大きな行事以外に父親がくさぶえに来ることがほとんどなかった。そのことについて舞幸はどう思っていたのだろうか。寂しい思いをしてきたのだろうか。・・・と今思っただけで今までの私は「くさぶえを卒園させたい」という気持ちだけで突っ走ってきた。何度か“退園”について旦那と揉め、「保育料が高い」と言われた時は、かなりムキになり「働かなくては!!!」と昼は仕事、夜はバイトしたこともあった。途中で気を抜くと自分が崩れそうだったから、ずっと意地を張り続けた。これまで“舞幸のため”“舞幸のため”と頑張ってきたが、今思い返すと全ては“自分のため”だったのかも知れない。くさぶえを選らんだ私は間違っていなかったのだ・・・と。

 卒園期を迎え、ありとあらゆる面で自信に満ちあふれている我が娘、舞幸を見ていると本当に“くさぶえ”で良かった!と思える。今の舞幸に聞いてみても同じ答えが返ってくるだろう。でも今は“くさぶえ”という世界しか知らないから何年かして、色々な世界を知ってから舞幸に聞いてみたいと思う。

 これまで私達親子に関わって下さった保育園の職員の方々、父母の皆様のおかげでこの日を迎えられることを心より感謝しております。ありがとうございました。

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