2007年度「卒園のしおり」から(2)

【こうちゃん 卒園おめでとう】  土田 華世

 倖平が年長になってからの1年間、本当に色々なことがありすぎてとても大変だったような気がします。
 倖平自身もたくさんのことに戸惑い悩んでいたのだろうと思います。今の私、今の倖平がここにいることがとても不思議です。
 倖平は夏の終わり頃から今年の1月まで、とにかく喘息の発作をくり返し、体力もおち体もとても細くやせてしまいました。もしかしたら、今、生きていることさえ奇跡なのかもしれません。
 
 喘息で何度も入院し、保育園もよく休んでいたので、倖平と過ごす時間はたくさんあったけど、倖平と本当の意味では向き合えておらず、母親なのに倖平がどういう子なのか理解できていませんでした。最後の懇談会で入園当時からの絵をみて改めて倖平の大変さにきづきました。今まで本当に倖平のことをみてなかったのです。今年に入ってから少しずつ倖平のことが理解でき、やっと向き合えるようになったと思います。
 
 自分の弱さを喘息でごまかしてにげようとしている倖平に対して「今度入院しても1人で病院にいてね、とうともかあかも仕事があるから。倖ちゃんが喘息で死んでも仕方がない。自分の命は自分で守らないと生きていけないんだから。」と冷たい言葉を言ったかもしれない。でも私は後悔はしていない。全ての過程があって、今の倖平がいるのだと思うから。
 沖縄に交流保育に行く前、倖平は私に「かあかが嫌だ。保育園におらんといて。」と自分の気持ちをぶつけてくれました。その時に倖平といろんな話をし、私もっと心から「よくがんばってるね、すごいね、こうちゃん。」と伝えることが出来ました。そして1つクリアするとまた1つと、求めるばかりの親であったことも、深く反省しました。

 数ヶ月前の倖平とはまるで別人のような倖平が私の目の前にいます。今の倖平は自信満々でかっこいい。
 自己肯定感というのは、周りの大人にただ愛され、ほめられて育てば得られるものではなく、それらを土台として、それらの励ましの中で自分で壁をのりこえていった時に、築きあげられるものだと倖平をみていて思いました。

 またお泊まりをするたびに仲間と楽しく過ごせるようになったのか、ゆきちゃんに抱きついて遊んでいる倖平をみかけるようになりました。私はそのことをとってもうれしく思いました。
 
 今、私が倖平に伝えたいこと、
   =よくがんばったね、こうちゃん 卒園おめでとう!=

 最後に、いつも私達家族を支えてくださった職員と父母のみなさま、子ども達のおじいちゃん、おばあちゃんに心から感謝します。

2007年度「卒園のしおり」から(3)

【理想と現実】  金武 孝浩

 桜の咲くなか、あと数日で、保育園に終りを告げる時が、やってこようとしています。
5年間お世話になったわけですが、私自身、協調性と体力がなく、人見知りなこともあり、行事などにあまり顔を出せませんでした。その為、娘の保育園での姿をほとんど知りません。ただ娘は、たくさんの友達や職員の方々、父母の皆さんに囲まれ、素晴らしい子に成長したと感じます。
 これからもこの5年間を礎とし、もっと、もっと自分を磨いていってほしいです。
いろいろお世話になり、ありがとうございました。

2007年度「卒園のしおり」から(4)

「くさぶえと舞幸と私」  金武佳代

 舞幸は、くさぶえ保育園が好きで好きでたまらない、という感じが見ていてよく分かる。この5年間一度たりとも「保育園いや!」「行きたくない!!」と言ったことがない。病気になると大好きな保育園に行けなくなるから(?)病気らしい病気をしたことがない(笑)。
 朝が来るのが待ち遠しくて、朝食を食べ保育園の用意が出来ると玄関先で私を急かす。夕方、迎えに行くと「もっと遊びたい!」となかなか帰ろうとしない。

 舞幸が生まれてから6年と5ヶ月・・・心身共に成長してきた中に“くさぶえ”が大半以上を占めている。そしてこれから成長していく為の土台となるのだろう。
・・・。
 さて、私は初めてくさぶえを訪れたときに見た子どもの絵に感動したことが忘れられず「ここしかない!」と思い、旦那の理解を得られないまま半ば強行突破で舞幸を入園させた。理解が得られないということはもちろん協力も得られず(金銭面以外の)、大きな行事以外に父親がくさぶえに来ることがほとんどなかった。そのことについて舞幸はどう思っていたのだろうか。寂しい思いをしてきたのだろうか。・・・と今思っただけで今までの私は「くさぶえを卒園させたい」という気持ちだけで突っ走ってきた。何度か“退園”について旦那と揉め、「保育料が高い」と言われた時は、かなりムキになり「働かなくては!!!」と昼は仕事、夜はバイトしたこともあった。途中で気を抜くと自分が崩れそうだったから、ずっと意地を張り続けた。これまで“舞幸のため”“舞幸のため”と頑張ってきたが、今思い返すと全ては“自分のため”だったのかも知れない。くさぶえを選らんだ私は間違っていなかったのだ・・・と。

 卒園期を迎え、ありとあらゆる面で自信に満ちあふれている我が娘、舞幸を見ていると本当に“くさぶえ”で良かった!と思える。今の舞幸に聞いてみても同じ答えが返ってくるだろう。でも今は“くさぶえ”という世界しか知らないから何年かして、色々な世界を知ってから舞幸に聞いてみたいと思う。

 これまで私達親子に関わって下さった保育園の職員の方々、父母の皆様のおかげでこの日を迎えられることを心より感謝しております。ありがとうございました。

2007年度「卒園のしおり」から(5)

【そのの卒園】  浅野 正

 うちのそのが、卒園するなんてぜんぜん信じられない。本当に今年小学生になるなんて、なにかぜんぜん知らないうちに大きくなったんだと思った。それもそのはず、ほとんど家でも保育園でも何をしていたか知らないし、知ろうともしないからだ。会話といっても朝食の1時間くらいしかなく、「保育園楽しいか」「うん、楽しい」このくらいの会話で終わり、もう違う話になってしまうからだ。この時間しかないのにと思いつつ、元気な顔が見れればそれで安心してしまう自分があるからだと思う。他の子のお父さんはどうなんだろか?

 そのような事を考えると、子ども達は、父親をどう見ているのだろうか?休みもほとんどなく、一緒に居る時間も少ない事を考えると、なんだか想像すると居ても居なくてもいいような感じがして怖い、そんな事はないと思うが、どうなんだろうか?少しでもいい存在に見ていてくれることを願いたい。そう思いつつ、これからも自分なりに努力していきたいと思う。

2007年度「卒園のしおり」から(6)

【そのの卒園に向けて】  浅野 千保

そのは生後4ヶ月から母子通園をし、1歳1ヶ月から入園した。
私は保育料のため、お店以外の仕事も始めた。
くさぶえ保育園に子どもを通わせるために、生活ががらりと変わった。
家族が大きく揺れた。
我が家は、くさぶえから離れたほうが、いいのだろうかと考えた。
自分が変わらなければ、どこにいても一緒なんだと思った。
ずっと忙しかった。今年は特に、何をしているのかわからないくらい忙しかった。
そのは、家ですごく泣く。
自分の存在をアピールしている。
夜も会えない日が続いたり、いて欲しいときに私がいないことも多かった。
寂しい思いをさせているという意識は、ずっとある。
次女として生まれてきた、そのの複雑な気持ちを、私はなかなか理解できない。
今まで、私は子ども達の心に寄り添って、子どもの気持ちを大切にしてこられなかったように思う。
親の生きる姿勢をみて・感じて育つのだから、自分が大事に生きよう、と思った。
自分自身の目で見、心で感じたことで、自分の判断をしようと思った。
これからも、夜や子どもの望むときに私がいないことは多い。
時間を作れ、ゆっくりできるのは朝しかない・お店の事もしっかりやっていこうと思い、仕事をやめた。
朝を家族の大事な時間にしていこうと思っている。
家族が協力し合って、必死にお店をやっていく、それが浅野家の道なのだから、私は子ども達の心に寄り添っていけるようになりたい。

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